雑に描いた絵

雑に描いた絵をテキトーに仕舞ってもらいたい! と思うことがあります。
もう少し詳しく書くと、気ままにすばやく描いた絵を、その場にいた誰かに手渡したい。内容をさらったあとは、授業中に回ってくるあのメモみたく、カバンの底にでも押し込んでほしい。学期末には、底にたまったレシート類と一緒にくずかごに投げ入れて構わない。なんとなく捨てづらいものを一時的に保管している例の場所、そこに放り込んでもいい。
ようは、私が雑に描いた絵を、きちんと雑に扱ってもらいたいのだと思います。

私が中学生のとき、どういう脈絡だったかは忘れましたが、ヒステリックな芸術家の寸劇をすることになりました。「絵をこちらで用意するから、それを役者に破ってもらおう」という私の提案が通ったので、画用紙に適当な図柄を描きました。
本番が終わったあと、クラスメイトのみんなが破かれた紙片を拾い集め、セロテープで繋ぎ合わせていたのをよく覚えています。彼らはつぎはぎの紙を私に手渡し「素敵な絵なのにもったいないよ」と言いました。役者の子はばつの悪そうな顔をしてた。書いてて思ったけど、本当にかわいくてやさしくて良い子たちだ。思い出すと胸がギュッとなります。
それはそれ、当時の私は奇妙な気分になりました。最初から破るのが目的だったのだから、あの絵はちゃんと役目を果たし終えたのだから、それでいいじゃないかと。保存を全く想定していなかったので、ちょっと面食らったのだと思います。

すこし前、Twitterからフリート機能がなくなりました。私はこの機能が大好きで、よく使っていました。24時間たてば投稿が自動で消去されるので、その日食べたごはんや出先の写真、落書きなんかを気軽に公開することができます。
現在はサブアカウントに作業進捗や落書きを投稿していますが、やっぱりフリートとは勝手が違うな、と感じることが多いです。ツイートとして投稿された絵は地層のように積み重なっていきます。一方フリートには、およそ時間軸と言えるようなものがない。その時その場にしかない絵が点々と散らばっている。今思えば独特の心地よさがあったように思います。
フリート、復活しないかな~。

冒頭の話の続きをします。
気ままにすばやく絵を描くとなると、必然そのとき置かれていた状況に影響されやすくなると思います。そうした日記未満の絵を、その場で誰かと共有してみたい。そこで大方の目的は達成されるので、あとはどうなってもOKです。むしろ処分されることが、逆説的に私の絵の任務を完了させている気すらする。
とはいっても、例えば一時的な保管庫から引っ張り出された紙切れが、当時の思い出を蘇らせたとしたら、きっと超うれしいだろうなあ、とも思います。